抜刀稽古2017.5.21
N市にて抜刀稽古
5/21日曜日、N市にて抜刀稽古をしました。
参加者は東雲道場の世話役の私の他、東雲道場の
指導担当のFさん
男性会員Iさん
女性会員Mさん
の計4人でした。
4人の中では、私が一番稽古年数が多かったので引率役をさせて頂き、抜刀先生の指導を受けました。
4人の中で、Iさん、Mさんは初めての抜刀稽古でした。
抜刀稽古とは、いわゆる
試斬り
据え物斬り
等と呼ばれている稽古で、竹や巻藁を剣で截り離す稽古です。
僭越ながらも、今回の抜刀稽古について私の総評は以下の通りです。
Fさん
・前回の稽古より、力んでおらず、呼吸で截っていることが分かる。
・刃筋も横に浅くはなく、直径10センチ程の竹を容易く切断出来た。
・以前は抜刀後に撥草等に構え直してからの斬撃であったが、今回は抜刀して斬撃出来るようになった。
Iさん
・普段の稽古通り、撥草からの袈裟截りで力まずに斬撃出来ていた。
・普段の稽古に忠実な動きであった。
・抜刀の際、落ち着いて抜刀し平常心を保っていた。
Mさん
・生まれて初めて抜刀稽古をして、直径10センチ程の竹の半ばまで切り込めたほど、体が繋がって来ている。
・かなり遅い刃速で、巻藁が分断出来るほど袈裟截りの精度が高かった。
抜刀先生の総評
Fさん
・力まずに截れているし、刃の角度も及第点であるのが、斬撃という点で足らないものがある。
・力まないで斬撃するのと矛盾が生じるかも知れないが研鑚してほしい。
Iさん
・身勢に独特の癖が見受けられるが悪くは無く、力んでおらず良かった。
・落ち着いて剣を扱えていた。
Mさん
・緊張しただろうけど、よく截った。
・拍子を失い截れなくなったので、拍子の稽古をすると良い。
というものでした。
抜刀稽古では嘘をつけないところに面白味があります。
いざ馬(試斬台)の前に立つと、頭の中が真っ白になり、馬に向かって歩み初めた時には目の前が見えていません。
截り離れた巻藁を見て、徐々に視覚と脳と五体の感覚が甦返って来て、残心し、安堵のうちに納刀する。
自分が何をどうしたのか等覚えておらず、ただ自分の体が截った証しだけが自らの技量を教えてくれます。
抜刀先生曰く、
綺麗に截ったかどうかでは無く、截った体で技量を観ないといけない
とのことです。
新たな感覚を味わって頂けたなら、嬉しく思います。
日帰りの強行軍でしたが、皆様お付き合い頂きありがとうございました。
以下荘子より引用
包丁が文恵君の前で牛を解体してみせた。
手で触れ、肩を寄せ、足で踏み付け、ひざを立て掛けて、包丁の動きに添って、さくさくざくざく音がする。
牛刀を進めるたびにさくさくと、古代の名曲に和するように音がする。
そして、たちまち見る見るのうちに牛は見事に解体された。
文恵君はあ~見事だな、技も極まるとここまでになるのかと喜んだ。
すると包丁、刀をおいて申し上げる。「わたしめは道を求めておりまして、単なる技より勝っています。わたしめも、はじめ見習いの時は、目の前が牛でいっぱいでした。しかし三年の後にはもはや、牛の全体は目に入りません。今に至りましては心の内なる像に対していて、目によって捉えません。外部の知覚器官は止まっているままで、心の欲するところが行なわれます。肢体の仕組みにしたがって、皮と肉、肉と骨の大きな隙間では刀は走り、筋が入り組み骨と肉が絡まったところでも一刀のもとに切り込んで、やり直しはありません。ところで腕のよい者でも年に一度は刀を取り換え、たいていの者は一月ごとに刃を折るものです。しかし、わたしめの牛刀は十九年、数千頭もの牛を解体してきましたが、ほんのいま研ぎあげた刃物のようであります。それと言いますのも、あの骨・節には隙間がありますが、刃先は厚みがないようなものです。厚みのないもので隙間に入っていくのですから広々としたものでいくらでもゆとりがあって、十九年も使っているのに刃先は研ぎ出したままのようです。そうは申しましても要所を前にしましてはわたしめもその難しさに心を引き締めます。目を凝らしてしっかりと対象を捉えます。牛刀の歩みもゆっくりと進み、刃先と対象のかすかな手ごたえを確かめています。そして、ドサッと土塊が地面に落ちたように肉のかたまりはすっかり切り離されてしまいます。しばし牛刀を手に立ち止まり、仕事の結果を確かめ、心に満足ゆくものであれば、はじめて牛刀をぬぐって鞘に収めるのです。」
文恵君が言う「すばらしい!わたしは包丁の話を聞いて処世の秘訣を得た。」
包丁の由来でした。
5/21日曜日、N市にて抜刀稽古をしました。
参加者は東雲道場の世話役の私の他、東雲道場の
指導担当のFさん
男性会員Iさん
女性会員Mさん
の計4人でした。
4人の中では、私が一番稽古年数が多かったので引率役をさせて頂き、抜刀先生の指導を受けました。
4人の中で、Iさん、Mさんは初めての抜刀稽古でした。
抜刀稽古とは、いわゆる
試斬り
据え物斬り
等と呼ばれている稽古で、竹や巻藁を剣で截り離す稽古です。
僭越ながらも、今回の抜刀稽古について私の総評は以下の通りです。
Fさん
・前回の稽古より、力んでおらず、呼吸で截っていることが分かる。
・刃筋も横に浅くはなく、直径10センチ程の竹を容易く切断出来た。
・以前は抜刀後に撥草等に構え直してからの斬撃であったが、今回は抜刀して斬撃出来るようになった。
Iさん
・普段の稽古通り、撥草からの袈裟截りで力まずに斬撃出来ていた。
・普段の稽古に忠実な動きであった。
・抜刀の際、落ち着いて抜刀し平常心を保っていた。
Mさん
・生まれて初めて抜刀稽古をして、直径10センチ程の竹の半ばまで切り込めたほど、体が繋がって来ている。
・かなり遅い刃速で、巻藁が分断出来るほど袈裟截りの精度が高かった。
抜刀先生の総評
Fさん
・力まずに截れているし、刃の角度も及第点であるのが、斬撃という点で足らないものがある。
・力まないで斬撃するのと矛盾が生じるかも知れないが研鑚してほしい。
Iさん
・身勢に独特の癖が見受けられるが悪くは無く、力んでおらず良かった。
・落ち着いて剣を扱えていた。
Mさん
・緊張しただろうけど、よく截った。
・拍子を失い截れなくなったので、拍子の稽古をすると良い。
というものでした。
抜刀稽古では嘘をつけないところに面白味があります。
いざ馬(試斬台)の前に立つと、頭の中が真っ白になり、馬に向かって歩み初めた時には目の前が見えていません。
截り離れた巻藁を見て、徐々に視覚と脳と五体の感覚が甦返って来て、残心し、安堵のうちに納刀する。
自分が何をどうしたのか等覚えておらず、ただ自分の体が截った証しだけが自らの技量を教えてくれます。
抜刀先生曰く、
綺麗に截ったかどうかでは無く、截った体で技量を観ないといけない
とのことです。
新たな感覚を味わって頂けたなら、嬉しく思います。
日帰りの強行軍でしたが、皆様お付き合い頂きありがとうございました。
以下荘子より引用
包丁が文恵君の前で牛を解体してみせた。
手で触れ、肩を寄せ、足で踏み付け、ひざを立て掛けて、包丁の動きに添って、さくさくざくざく音がする。
牛刀を進めるたびにさくさくと、古代の名曲に和するように音がする。
そして、たちまち見る見るのうちに牛は見事に解体された。
文恵君はあ~見事だな、技も極まるとここまでになるのかと喜んだ。
すると包丁、刀をおいて申し上げる。「わたしめは道を求めておりまして、単なる技より勝っています。わたしめも、はじめ見習いの時は、目の前が牛でいっぱいでした。しかし三年の後にはもはや、牛の全体は目に入りません。今に至りましては心の内なる像に対していて、目によって捉えません。外部の知覚器官は止まっているままで、心の欲するところが行なわれます。肢体の仕組みにしたがって、皮と肉、肉と骨の大きな隙間では刀は走り、筋が入り組み骨と肉が絡まったところでも一刀のもとに切り込んで、やり直しはありません。ところで腕のよい者でも年に一度は刀を取り換え、たいていの者は一月ごとに刃を折るものです。しかし、わたしめの牛刀は十九年、数千頭もの牛を解体してきましたが、ほんのいま研ぎあげた刃物のようであります。それと言いますのも、あの骨・節には隙間がありますが、刃先は厚みがないようなものです。厚みのないもので隙間に入っていくのですから広々としたものでいくらでもゆとりがあって、十九年も使っているのに刃先は研ぎ出したままのようです。そうは申しましても要所を前にしましてはわたしめもその難しさに心を引き締めます。目を凝らしてしっかりと対象を捉えます。牛刀の歩みもゆっくりと進み、刃先と対象のかすかな手ごたえを確かめています。そして、ドサッと土塊が地面に落ちたように肉のかたまりはすっかり切り離されてしまいます。しばし牛刀を手に立ち止まり、仕事の結果を確かめ、心に満足ゆくものであれば、はじめて牛刀をぬぐって鞘に収めるのです。」
文恵君が言う「すばらしい!わたしは包丁の話を聞いて処世の秘訣を得た。」
包丁の由来でした。
by shinonomeaiki
| 2017-05-27 20:29
| 抜刀稽古
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