合気観照塾東雲道場

カテゴリ:意義( 7 )




居合、抜刀稽古について


一、抜刀稽古の前には目釘を点検すること。

 (目釘が外れる、折れると刀身が振られる軌道で飛んでいくため。)

一、三人以上で抜刀する折りは、半数もしくは、奇数人数の場合は一名を足した人数の半数が抜刀することとする。
  但し、上限の人数を鑑みて十名を超える時は、三分之一名で抜刀することとする。

 (稽古高率は低下するが、監視役と見取り稽古を併用し、観衆は稽古者を注意する。)

一、居合刀(模造刀)で警杖等、人が持つ物に打ち込む場合は、決して力を込めず、寸留めの心持ちで行うこと。

(居合刀には剣道型用と居合用の二種類があり、居合用は刀身が薄く、物に当てることを想定していません。
剣道型は刀身同士を当ててもいいように作られていますが、床に落とすだけで簡単に折れることがあります。
人が振れる金属等たかが質量が知れていますので、脆い物だと自覚して注意して下さい。)

一、試斬台に据えた物に打ち込む場合は、特段の事由のほか観衆は試斬台に向かって台の前足より向こう側には絶対に立たないこと。

(刀身の金属疲労や、目釘の折れ等で飛散する物体から身を避ける。)

以上四項目で居合、抜刀稽古を行っていきたいのでご協力お願い致します。


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by shinonomeaiki | 2016-09-14 07:20 | 意義 | Comments(0)

合気の出所

世話役です。

ここ三ヶ月程、多忙が極まり右足の踵に激痛が走りはじめました。
いくら柔軟体操をしても良くならず、仕事から帰れば、娘や妻に左体側の後方を揉みほぐして貰う毎日でした。
左足の足首にも違和感があり、この痛みは何処から来るのかを観察しました。
まず、違和感については、

左側の体側後方がだるくなり、圧迫して欲しい衝動に駈られる。

立ち上がる時、右足の股関節に力が通らない。

右足のふくらはぎが張っている。

右足の踵が着地の際にずれている。

右足の踵に激痛が走る。

と感じられました。

次に、疑問点を考察しました。

なぜ、体側も踵も片方だけなのか。

なぜ、両方に痛みがないのか。

と考えて、とりあえず仕事中は真っ直ぐに座るように心掛けました。

過去に多忙な日々で、首が固まり上を向けなくなったことがあったのです。
この時は師匠に治して頂きました。

真っ直ぐに座るように心掛けたのですが、一向に良くならず、激痛は日をまして強くなりました。

そこでもう一度見直したのです。

座る姿勢では影響しない。

仕事を重ねると悪化する。

歩く姿勢で、左右の違いは無い。
(鞄は随時持ちかえるため。)

では、精神的なものなのか、それとも悪霊の仕業?

なんてのも頭をよぎりましたが、精神も悪霊もご丁寧に片方だけに呪いをかける根拠に乏しく思いました。

そこで片方だけ長時間していることを、列挙すると

睡眠姿勢

が思いあたりました。

しかし寝返りは自己回復姿勢という考えに一票なので痛みがあるから、片方だけ下で寝ているのではないかと思いました。

そして、あーだ、こーだと考えていて、ひとつ思いあたりました。

それは、手です。

体は真っ直ぐでも、いつもマウス握っているのは、右手だったのです。

試しにいつもと反対にマウスのケーブルを差し込んで、一日だけ左手でマウスを使いました。

すると体の中が歪んでいることに気が付きました。

たった一日で、体側の違和感は消え失せ、踵の痛みもほとんど無くなったのです。

私は師匠の、歩き方を医者が診断する装置が導入されるというブログの記事を読んで、憤りを感じました。

私に、「マウスを反対にさしてみなさい。」と言える医者が存在するとは到底思えません。

私達が痛みに襲われて、苦しめられるのは、OS先生や師匠のような達人に合気をかけられるのに等しいと思います。

なぜなら、相手の力の出所が分からず、反応出来ず、分からずに投げられ、固められるのです。

痛みを起こす原因を突き止めるのは、合気の出所を突き止めることに似ていると思います。

 

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by shinonomeaiki | 2016-08-25 01:03 | 意義 | Comments(0)

マリーさんと刀身一致

刀のお話

時間があったので、京都の刀剣イベントに行きました。

すると今年は結構、これから剣術を初めようと思うという人や、始めたばかりの人が結構おられました。

同じように、武術を志す人がまだ芽生えているのは、嬉しい限りです。

ですから、あまり刀剣の知識をご存知でないように感じられました。

私も刀剣の知識があるほうではありませんが、これだけは言えます。

『刀は体で使う。』

です。

体とは、身体全てで、即ち、私達が意識という分野で身体を統率するならば、
   刀を使うということは
   身体を使うということ
になると思うのです。

手の握り、足の角度、刃の方向、呼吸、目つけ、腕、肩、頭の向き・・・

と文字で書ける内は体全てではありません。

東雲道場では、私が宗匠より指導を受けたように、刀、棒等の道具を使う身体操法が基本になります。

合気柔術の基本は剣術の身体操法ですから。

真剣を持ったときの手を見れば、だいたいどんな指導を受けているかが分かります。

他流の感想は差し控えますが、いつも宗匠の合気観照の図を見て思うのは、情報を捉える基点を間違えると、使い物にならなくなるということです。

例えるなら、
パンが無いなら、ケーキを食べればいい
と言ったマリーさんといっしょですね。(史実でマリーさんが本当に言ったかどうかは諸説あり。ここでは例えばの引用で使わせて頂きます。)

パンとケーキが主に小麦粉で出来ているとは知っていても、どうやって出来ているかが分からず、なぜ小麦粉が人体に必要なのかが理解出来ていないことから出た発想だと思います。

俗に秘伝、奥伝などという型だけ知っていても、型を行う己の人体の使い方が理解出来ていなければ、宮廷のマリーさんといっしょですね。

よくサポーターやテーピングさんがおられますが、どうしてでしょう。

いずれは頭で思い描く理想の技術と、己の人体の違い(現実との違い)により、頭と体が離れます。

宮廷が流派で、型がケーキ、身体操法が小麦粉です。

宗匠の稽古は、小麦粉が大事ですね。

でもかくいう私もまだまだですが。

刀身一致を目指して日々精進です。



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by shinonomeaiki | 2016-05-03 22:59 | 意義 | Comments(0)

位を覚えないということ。

世話役です。

 いつも気をつけていることを書いてみました。


1 位は覚える必要は無い。
  位は身勢が外に現れた状態です。
  身勢とは、平たく言うと、体内の懸(けん)と待(たい)が循環し、滞りなく動ける状況であり、その時々によって変化するものです。
  よって、位には形がなく、身勢によって定義づけられていますので、見た目に固執する必要はありません。 

2 忘れることを能動的に捉える。
  形を忘れるということは、身勢が馴染んでないということ。
  位をとった自分の姿を覚えるより、打ちかかる相手の姿に反応する。
  覚えられないということは、その形では相手に反応出来ないので、体が防衛本能で忘れさせようとしているかも知れないですね。
  そんな形を覚えるのは体に良くないです。
  でも宗匠が動けているのは何故か?
  それは、位をとる以前の身体操作なのです。
  ですから私は、『覚えられないこと』を大切にして、何故出来ないのかを考えて、呼吸一つ、指の曲げ方一つから細やかに修得したいと思います。

3 何を修得するのか。
  身勢が出来ていなければ、上手く構えてもゼロ点です。
  身勢が出来ていれば、剣がなくても位なのです。
  私は自分も含めて会員の方々には、上手く剣が使えるようになって欲しいとは思っておらず、上手く剣が使える体になって欲しいと願っています。

  何故なら世の中に数多ある身体技術の中で剣や剣から生まれた合気が一番普遍性を有していると考えるからです。
  囲碁、バスケ、オートバイ、登山等にも当然に哲学があり、普遍性があると思いますが剣、合気を含む武術(殊に生死を賭けた時代から派生する流儀)は生を勝ち得るために、死と向かい合うしかなかったのだと思います。
  もちろん、封建的な世の中で、自分の意思によらず、刃物で人と切り合わなければならなかった時代の話です。
  そんな世の中で誰もが否応なしに死と向き合い、そこから生を勝ち得る方法に普遍性を見出だそうとしたのだと思います。
  
  私は念仏宗教にも同じことを思います。
  念仏を唱えれば救われる。
  誰もが苦しみから救われたい、その『誰もが』が普遍性ではないでしょうか。
  誰もが『生きたい』と願う。
  その『誰もが』のために、奇跡的な資質と才能を持って生まれた達人たちが、星の光のように現れては消えながら、少しずつ体系化し普遍性を帯びた技術こそが修得すべきものだと考えています。

  ですから私は、そのようにして出来た動きの技術、ものの考え方が他の動きや動作、思考活動に使えないわけがないと考えています。

 くれぐれも、覚える起点を間違えないように気を付けていきたいと思います。
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by shinonomeaiki | 2016-04-13 08:31 | 意義 | Comments(0)

円空仏について

世話役です。

今年の夏に下呂温泉に家族で旅行した際に、思いがけず円空仏に出会うことが出来ました。

下呂温泉にある合掌村という有料のテーマパークのなかに、円空館という施設があり、十体以上の円空仏が観覧出来ました。

殊に私が釘付けになったのは、小さな稲荷大権現です。

本当に小さな、30センチほども高さが無いと思われる狐の仏像ですが、その目に宿る神気は、紛れもなく人智を越えており、人とも獣とも違う、見ているこちらを、嘲(あざけ)り、慈(いつく)しみ、いとおしみ、悲しむように見つめ、様々な記憶と感情を、深い臓腑から呼び起こさせるような思いにさせるものでした。

そして、全体に刻まれるノミ跡は、切り立った神山霊谷の岩肌を思わせるもので、見ている私の物質的な質量を奪い去り、その魂の比質に従ってこちらを包み込む雄大さがありました。

円空は江戸幕府が開かれた頃の仏師で、32歳より仏を彫りはじめ、62歳で12万体の仏像を彫り入定したと言われています。
木曽川の氾濫で母を亡くし、大般若経の法華経に出会って女人の救いを知り、仏を彫りはじめたと言われています。

私が円空を知ったのは日曜美術館という教育テレビの番組で、近代になって円空仏が多数存在することが確認され調査がはじまり世に知られるようになったということです。

出演していたお爺さんは、お寺の円空仏について、
子供の頃はみんなで仏様を厨子から出して人形がわりに遊んだり、川に持って入って一緒に泳いだものです。
と語っておられたのを見て、
仏とは「人の思い」で作られていくものなのかも知れないと感じ入りました。

そして円空仏を一目見たいという願いがこの夏に叶ったのです。
私が見た円空仏もそれぞれでたくさんの「人の思い」が込められて来たと思います。
それにより物質的な鑑賞を凌駕するのが円空仏だと感じました。
出来たての円空仏には恐らく、その魅力は無かったと思います。

「人の思い」が仏を作ることと、「人の思い」の大切さが身に染みました。


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by shinonomeaiki | 2015-10-17 00:24 | 意義 | Comments(0)

カタの妙

岡本太郎氏の言葉にカタ稽古に通じるものがあるのでご紹介致します。

以下引用

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。
ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。
財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。
過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。
それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。
捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋に膨らんでくる。

(『自分の中に毒を持て』 岡本太郎著 青春文庫)より引用

私が宗匠に剣を習った時には、一度も「覚えろ。」と言われたことはありません。
私も東雲道場では覚えなくていいですと言っています。

この岡本氏の言葉は本当に言い得て妙だと思います。

カタ稽古は、それまでに身に染み込んだ動きや、体に関する考えを捨てるためにやって頂いてるとも言えます。

 ですから、覚える必要はありませんが出来るように稽古して頂きたいと思います。

 こう言うことも、本当は文章にすると「家珍」の妨げになるやも知れないですが、最初のスタンスが大事だと思いましたので申し上げておきます。



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by shinonomeaiki | 2015-08-27 08:41 | 意義 | Comments(0)

剣道にて

1/30に世話役の私が、久々に剣道をした感想です。

・剣道に合気、剣の理合をいかすのは、テニスや野球において合気、剣の理合をいかすくらい難しいと考えていました。
・剣道経験者なら共感して頂けると思いますが、まず、私のような低段者ほど、まっとうな剣道は相手の打ち込みを剣で受けてはならない、剣で受ける暇があるなら相手に打ち込む、また、よける暇があるなら、相手に打ち込むというように稽古をする時があります。
・剣道の面打ちにあっては、振りかぶって切るというより、踏み込みと同時に中段から浮き上がった竹刀を手首を使って絞り下ろして打つといった感じで、真剣を用いた場合、切れないことはないと思いますが、体の推進力と合わさって、押切のようになると思います。
・未熟者ですが、そのような剣道で合気や剣の理合を使えるかどうか、数年来、試して来たのですが、どうしても、剣道では剣を振り上げない分、呼吸や体内操作をする時間的余裕がなく、理合を使えなかったのです。
・そんな中、私が思い至ったのは、剣道に剣の理合を生かすより、剣道を剣術に近づけようと発想を変え、
手首のスナップを辞め、しっかり剣を振り上げて打つようにしました。
・そのようにすると、どんなに速く剣を振ってもスナップ打ちより振り遅れるので、単発打ちしか出来なくなり、小手面打ちは到底使えません。
・だいたい二段以上は、小手面打ちが出来てあたり前なので、試合で単発打ちしか出来ないと、消極的な姿勢と見られがちになります。
・そしていよいよ試合稽古になり、私は剣を振り上げ、呼吸や体内操作を使って単発打ちをしていたのですが、無残にも、私の目には相手から先に伸びて来る竹刀の映像がはっきりと映り、完璧に剣を振り遅れてるのが分かったのです。
・試合を終えてから、休憩所で、試合を見ていた剣道教師出くわしたところ、ギロッっと睨まれたので、「すいません、完璧に振り遅れて不細工でした。私はまだ、小手面打ちが出来ません」と言ったところ、「抜刀術の理合が見て取れました。どうやって打ってるのかは分かりませんが、あの先に腹が落ちて、剣が後から落ちていく打ちが、剣道の理想の打ちです。相手は来ると分かっていても、分かったときにはもう避けられません。私も抜刀術しようかな。」と言って頂けたのです。
・確かに言われてみれば、相手の竹刀が頭に当たった感じがなく、試合を見た人何人かに「強いですね。」と言われたのですが、まるで実感がありませんでした。
・偶然かも知れないので、リップサービスと受け取っておき、稽古に励もうと思います。
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by shinonomeaiki | 2014-02-01 04:01 | 意義 | Comments(0)

東雲道場は、合気修得を志す人の稽古場であり、このブログは、その人達のために稽古内容を記録化する目的で開設しました。
by 世話役
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