無形、雲
宗匠の過去のブログ記事です。
蚤を潰し雲を掴む?
2014-07-25 07:29
「一刀流極意」笹森順造著からご紹介します。
p.480
(7)睡中抓痒処
無心であってよく達し急所に当たって決してはずれない。宛も眠っている時に痒い所に爪が自然に行って蚤を潰すように万事が行き届くようにありたい。
蚤を見付け目を瞠り大手を拡げ心を配っても蚤は中々捉え難い。それは心が動き手が迷うからである。睡中に痒い所を掻くのは行きなり無心でゆくからである。
それでは目で見ずにどうして手が急所に届くかというと、手が目が教えなくても知っているからである。目を閉じて鼻の先を掻こうと思うと鼻の先に手がゆく。背をさすろうと思うと背に手がゆく。それは手は体のどこはどうとよく知っているからである。
どうして手がそれを知っているかというと、心が知っていてふだんから手に知らしているからである。蚤がどこを刺しているか心が知って手に知らせるから手が行きなり蚤を潰すのである。心と手とよく連絡通信ができているから目を通す必要がない。
更に進んで敵が吾が体のどこかを切ろうと狙う事を吾が心で覚と、敵の動作が出て目に写る前に吾が手が知ってそこを防ぐ、また敵の体に隙が出るとわが手が知り直ちに切り込んで勝つ。肉眼よりも心眼が先に見て勝つ。これは無心無極の勝ちである。
特に短を以て長に対し、間違いなく急所を制し得るのは短の技がよく熟し手がよくよく弁え要をはずさず思わずして転化し巧まずして働くからである。宛も水を盛った器に穴があくと、そこから水が奔(はし)り出るように剣の技が出てくる。ここは睡中抓痒処の教えであり流の柔らかで直ちに応じ過まることなく的中する所である。
人が先天的に与えられた本性を発揮して邪念邪想がなかったら万事滞りなく取り運び得られるものである。天真爛漫であれば作為技巧の達し難き事を直ちに遂げることを教えるのである。
p.569
(7)雲の構
構の無構、無構の構というのは構に形があって形のないことである。形が見えるとそこに敵が打つてくる。形が見えなければ打つこともできない。しかし構である以上全く形がないとはいわれない。そこで一刀流ではこの構を雲の構と教えている。
雲には入道雲、波雲、朝顔雲、雨雲など呼ぶ名があるが、その形は捉えようとしても全く雲を掴むようなものである。雲には全体の形があっても個々の形がなく、またその形も風に従って移り気に乗って流れ山に当たって変わる。刻々流転変貌万化集散現滅して一瞬も滞らない。山に当たって生ずるが山をも包む。地より湧くが地を覆う。風に送られて飛ぶが風をも呼ぶ。
そのように雲の構は敵に従って生ずるが、敵を包み敵を覆い敵を走らすのである。天地位を定め、山沢気を通じ、雷風相薄り、水火相射ると。雲は見えざる所から生じ静かに集まるが、一度激すると、大雨を灑(そそ)ぎ、万雷天地を轟かす。一刀流の雲の構もこれと同然である。
#楽隠居です
このところ古流剣術関連の資料を読み直したり、YouTubeで動画を検索したりしています。剣術を習っていた頃とは、見る角度?が変わってきているようで、中々面白いです。時代が変わり、風俗習慣が変わり、道具が変わると型もどんどん変化しているんですね!
勿論、個性や教える側の都合?もありますから・・・
これまでは、合気から剣術を見ていたのですが、剣術から合気が生まれるところを想像してみるのも楽しいです。ですから、YouTubeを見ていても、合気が生まれる可能性がある剣術かどうかに興味があり、その流派が伝統的かどうかには、全く興味が無いんですね!
以上宗匠記事
世話役です。
東雲道場の定例稽古において、
1 歩法
・何も持たない(腕回し)
・両手短棒、両手剣回して前進
・前同小さく回して前進
・前同、手に持って下げたまま
回さず前進
2 剣の歩法
・諸手で一刀、無形のまま前進
・文を截って前進
・正面截りで前進
の順で稽古をするときがあります。
ある易卜の権威から
神社の注連縄(しめなわ)は雲
紙垂(しで)は雷
雨は人に降る
ちゃんと順序がある
と聞いたことがあります。
雨は
空から降ってくる水滴。大気の水蒸気が高所で冷却により凝結して水滴となって落ちてくるもの。
絶え間なく降りそそぐもの。
という意味です。
大気の水蒸気である『空』が歩法
水蒸気が集まった『雲』が無形、位
雲が集まって雨を呼ぶ『雷』が文を截る、雷刀
雨は相手に「ふる」もので、剣を「ふる」理合の『合気』と言ったところでしょうか。
神社には、雲と雷の看板はあっても、雨の看板は無いのです。
氏神に行くと
うちには雨は置いていません
雲と雷は呼びますけど
あとは、あなた自身の処世(広義の意味)次第ですね
と言われているように感じるようになりました。
ですから、神、仏の寺社仏閣は願い、求めに行くところではなく、己の処世を神、仏に問い、評価を頂く所のように思えます。
型の切り売りを買って喜ぶのは、神社で雨が貰えると思うのと等しいのです。
重ねて言いますが、人が肉視出来る神社の雲と雷はあくまでも『看板』で、天、神が人に与えるのは本物の雨と雨による恵みで、目には見えないのです。
釣り具屋さんみたいなものでしょうか。
魚を釣るための道具、エサは置いていますが、魚は売っていません。
型のみに執着する人は、釣り具を集めて満足して、魚を釣ろうとしない人です。
かくゆう私もすぐに道具を集めてしまう癖がありますが・・・
蚤を潰し雲を掴む?
2014-07-25 07:29
「一刀流極意」笹森順造著からご紹介します。
p.480
(7)睡中抓痒処
無心であってよく達し急所に当たって決してはずれない。宛も眠っている時に痒い所に爪が自然に行って蚤を潰すように万事が行き届くようにありたい。
蚤を見付け目を瞠り大手を拡げ心を配っても蚤は中々捉え難い。それは心が動き手が迷うからである。睡中に痒い所を掻くのは行きなり無心でゆくからである。
それでは目で見ずにどうして手が急所に届くかというと、手が目が教えなくても知っているからである。目を閉じて鼻の先を掻こうと思うと鼻の先に手がゆく。背をさすろうと思うと背に手がゆく。それは手は体のどこはどうとよく知っているからである。
どうして手がそれを知っているかというと、心が知っていてふだんから手に知らしているからである。蚤がどこを刺しているか心が知って手に知らせるから手が行きなり蚤を潰すのである。心と手とよく連絡通信ができているから目を通す必要がない。
更に進んで敵が吾が体のどこかを切ろうと狙う事を吾が心で覚と、敵の動作が出て目に写る前に吾が手が知ってそこを防ぐ、また敵の体に隙が出るとわが手が知り直ちに切り込んで勝つ。肉眼よりも心眼が先に見て勝つ。これは無心無極の勝ちである。
特に短を以て長に対し、間違いなく急所を制し得るのは短の技がよく熟し手がよくよく弁え要をはずさず思わずして転化し巧まずして働くからである。宛も水を盛った器に穴があくと、そこから水が奔(はし)り出るように剣の技が出てくる。ここは睡中抓痒処の教えであり流の柔らかで直ちに応じ過まることなく的中する所である。
人が先天的に与えられた本性を発揮して邪念邪想がなかったら万事滞りなく取り運び得られるものである。天真爛漫であれば作為技巧の達し難き事を直ちに遂げることを教えるのである。
p.569
(7)雲の構
構の無構、無構の構というのは構に形があって形のないことである。形が見えるとそこに敵が打つてくる。形が見えなければ打つこともできない。しかし構である以上全く形がないとはいわれない。そこで一刀流ではこの構を雲の構と教えている。
雲には入道雲、波雲、朝顔雲、雨雲など呼ぶ名があるが、その形は捉えようとしても全く雲を掴むようなものである。雲には全体の形があっても個々の形がなく、またその形も風に従って移り気に乗って流れ山に当たって変わる。刻々流転変貌万化集散現滅して一瞬も滞らない。山に当たって生ずるが山をも包む。地より湧くが地を覆う。風に送られて飛ぶが風をも呼ぶ。
そのように雲の構は敵に従って生ずるが、敵を包み敵を覆い敵を走らすのである。天地位を定め、山沢気を通じ、雷風相薄り、水火相射ると。雲は見えざる所から生じ静かに集まるが、一度激すると、大雨を灑(そそ)ぎ、万雷天地を轟かす。一刀流の雲の構もこれと同然である。
#楽隠居です
このところ古流剣術関連の資料を読み直したり、YouTubeで動画を検索したりしています。剣術を習っていた頃とは、見る角度?が変わってきているようで、中々面白いです。時代が変わり、風俗習慣が変わり、道具が変わると型もどんどん変化しているんですね!
勿論、個性や教える側の都合?もありますから・・・
これまでは、合気から剣術を見ていたのですが、剣術から合気が生まれるところを想像してみるのも楽しいです。ですから、YouTubeを見ていても、合気が生まれる可能性がある剣術かどうかに興味があり、その流派が伝統的かどうかには、全く興味が無いんですね!
以上宗匠記事
世話役です。
東雲道場の定例稽古において、
1 歩法
・何も持たない(腕回し)
・両手短棒、両手剣回して前進
・前同小さく回して前進
・前同、手に持って下げたまま
回さず前進
2 剣の歩法
・諸手で一刀、無形のまま前進
・文を截って前進
・正面截りで前進
の順で稽古をするときがあります。
ある易卜の権威から
神社の注連縄(しめなわ)は雲
紙垂(しで)は雷
雨は人に降る
ちゃんと順序がある
と聞いたことがあります。
雨は
空から降ってくる水滴。大気の水蒸気が高所で冷却により凝結して水滴となって落ちてくるもの。
絶え間なく降りそそぐもの。
という意味です。
大気の水蒸気である『空』が歩法
水蒸気が集まった『雲』が無形、位
雲が集まって雨を呼ぶ『雷』が文を截る、雷刀
雨は相手に「ふる」もので、剣を「ふる」理合の『合気』と言ったところでしょうか。
神社には、雲と雷の看板はあっても、雨の看板は無いのです。
氏神に行くと
うちには雨は置いていません
雲と雷は呼びますけど
あとは、あなた自身の処世(広義の意味)次第ですね
と言われているように感じるようになりました。
ですから、神、仏の寺社仏閣は願い、求めに行くところではなく、己の処世を神、仏に問い、評価を頂く所のように思えます。
型の切り売りを買って喜ぶのは、神社で雨が貰えると思うのと等しいのです。
重ねて言いますが、人が肉視出来る神社の雲と雷はあくまでも『看板』で、天、神が人に与えるのは本物の雨と雨による恵みで、目には見えないのです。
釣り具屋さんみたいなものでしょうか。
魚を釣るための道具、エサは置いていますが、魚は売っていません。
型のみに執着する人は、釣り具を集めて満足して、魚を釣ろうとしない人です。
かくゆう私もすぐに道具を集めてしまう癖がありますが・・・
by shinonomeaiki
| 2017-10-25 13:57
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